100分de名著 柳田国男「遠野物語」「第2回 神とつながる者たち」の感想

100分de名著 柳田国男遠野物語」「第2回 神とつながる者たち」を見たので、その概要と感想を述べる。今回も、ゲストは、東京学芸大学教授の石井正己氏であった。

 

第2回目の概要

 

柳田国男は、神隠しにあいやすい性格、別の言い方をすれば、異常心理を起こしやすい性格であったと「故郷七十年」という著作の中で、本人が述べているそうだ。

だから、柳田は、自分だけにそういった不思議なことが起こっているのではなくて、日本各地でも起こっているということが興味深く、民話に興味を持ったという。

 

遠野物語には、神秘的な力を発揮する人や、発揮するようになるひとが登場する。そしてそういった人々は、現代の言い方で言えば、しばしば、知的障がいであったり、精神障がいであったりする。

 

遠野物語で紹介されている話のなかでは、「経済原理のなかでの合理主義、役立つか、役立たないかの二分法ではなく、その人にはその人の居場所がある」(石井氏)という。

 

感想

第1回目で、石井氏は、(遠野物語は、)「決して遠野物語は、過去のものにならない普遍的な価値がある」と述べていたが、第2回目にして、何を以てそういう主張をしているのかが、少しわかった。

すなわち、現在社会では、いわゆる自由主義経済での金銭的な価値があることが最も価値のあることであるとされがちだが、遠野物語の世界では、そうではなく、現代では、「福祉」という制度の対象だったり、ややもすると、社会の「お荷物」扱いされているような人々であっても、一概に、価値のない人と同定するのではなく、包摂していた社会だった。もう一度、現在社会の価値観を見直してみてはいかがかな、というのが、石井氏の主張なのだろう。

なるほど、それはその通りである。私は、かつて、学生のときに、途上国のスラムに1週間ほど滞在したことがあるが、そこでは、急にわめきだしたり、明らかに、通常のコミュニケーションができない人々もたまにみかけたが、彼(女)らにも、それなりに、コミュニティのなかに居場所があって、それ以外の人々は、完全に排除するでもなく、適度な距離感で接していた。1週間ほどの短い滞在であったので、深くはわからないが、スラムのコミュニティも、金銭の媒介がすべてではなく、別の原理が働いてることに起因するのだろう。

主に金銭の媒介が主流となっている社会も、それなりに、いい面もあるが、それが社会のあり方の全てではなく、そうではない社会もあるということは、当たり前だと言えば当たり前だが、意外と忘れがちな重要なことであるなあと思う。

 

 

 

100分de名著 柳田国男 「遠野物語」「第1回 民話の里・遠野」の感想

 

 

遠野物語」という本の名前は聞いたことがあり、それが、日本の民俗学と関係しているというところまでは漠然と知っていたが、今まできちんと読んだことがなかった。

今回、NHKの『100分de名著』で、柳田国男 の「遠野物語」を扱うということで、番組を見てみたので、その感想を記したいと思う。ゲストは、東京学芸大学教授の石井正己氏であった。

遠野物語の概要

 柳田は、当時の農商務省の官僚だったが、各地を視察で回っているうちに、各地の民俗について関心をいだくようになったそうだ。そして、遠野出身で、当時、早稲田大学の学生だった佐々木喜善(ささき・きぜん)と出会い、佐々木から聞き取った話をまとめたのが、遠野物語」なのだという。

 

遠野という場所の特徴

「遠野」は、「とおの」と読み、現在の岩手県の中央部にある地域を指す。内陸部と海岸部を結ぶ交易の地として栄えていた一方で、周囲を高い山々に囲まれた盆地であった。そのため、「開かれながら閉じている」(石井氏)地であるという。

 

「物語」のリアリティ

遠野物語中には、神々の話や妖怪の話がでてくるが、特徴的なのは、どこどこの誰それの家というように、その出来事があった家の住所や家の名前が記されている。つまり、特定可能な家での話が、記載されているのだ。

たとえば、「オクナイサマ」という神様の話では、「土淵村大字柏崎かしわざきの長者阿部氏」というように特定されている。番組では特定可能な家の話であるということがリアリティを付与していると紹介されていた。

また、「遠野物語」は文語体で記述されいてるが、その際に、過去の助動詞として、「けり」ではなく、「き」を使用していることも指摘していた。

例えば、「わずかばかりの田を植え残すことかなどつぶやきてありしに、」(第15話)という文中の「ありし」の「し」は、助動詞「き」の連体形である。

 助動詞「けり」は伝聞の意味合いが含まれるが、助動詞「き」を使うことで、「本当に見てきたことで、うそ偽りのないこと」(石井氏)だという意味合いになるという。

 

負の遺産

昭和45年の岩手国体のころから、「遠野物語」が観光資源として利用され始めたため、「遠野物語」のなかの、ほんわかした話のみが有名になっているが、ある意味で、「負の遺産」(石井氏)とも言うべき暗い話もあると番組では指摘されていた。

 例えば、カッパの子殺しの話はいくつか登場する。子どもが生まれて、手に水かきがついていたので、カッパの子だと言って、殺して捨てたなどという話である。

石井氏は、カッパの子殺しは、間引きやスキャンダル隠しとも解釈できるとする。

石井氏は、「遠野物語」の本質は、こういった暗い話にこそあり、「負の遺産」にこそ価値があるという。

石井氏はさらに、「逆に今のほうが家族が閉鎖的で、非常にリスクが大きくて、様々な事件が起こって」おり、「決して遠野物語は、過去のものにならない普遍的な価値がある」と指摘する。

 

第1回目の番組についての考察

さて、「遠野物語」というものの中身について、ほとんど知らなかったので、そういう話が書かれていたのか と新鮮に思う一方、石井氏の「現代家族の方が(遠野物語の時代より)閉鎖的である」という指摘は、釈然としないし、普遍的な価値があるという指摘は、少なくとも第1回目の放送内容からは、納得しなかった。

どのような「閉鎖性」があるのかについて、説明がなかったが、一般に、現代家族の閉鎖性という文脈において、「閉鎖性」とは、核家族化や、都市部での地域のコミュニティの希薄化がもたらす閉塞感のことを指すことが多い。

しかしながら、私的な体験で言えば、上の子が生まれて、妻が育児休業を終えて職場復帰した後、二人目の産前休暇にはいるまでの間、保育園には預けず、私は家で仕事をしながら、育児を独りでしていたが、特に息が詰まるような感覚を覚えることもなかったし、閉塞感を感じることもなく、わりと楽しく育児を行っていた。

もちろん、子どもや親の性格にも起因するのだろうが、気に入らないノイズがないほうが、育児しやすいという状況は存在していると思う。何か困ったら、インターネットで調べれば大抵のことは解決できるし、小児科も近くにあるので、特に不自由はない。インターネットの「キュレーション」サイトの情報を鵜呑みにせず、出典を確認するくらいの習慣はみにつけてきたので、特に危険に陥ったこともない。

親世代の人間などに、育児について先輩面して、科学的根拠のない都市伝説や思い込みを叫ばれ、その通りしないのは親失格だというような主張を押し付けられることは、害悪であると思う。むしろ、私にとっては、そちらのほうが閉塞感を感じそうである。

現在、たしかに、父親は外で仕事をして金を稼ぎ、母親は家で育児をするという役割分業という、近代以降の都市部のローカルな習慣を、あたかも規範であるかのように内面化した上で、核家族化だけが進展し、母親が本当に孤独に育児の責任を押し付けられる状況というのは、歪んだ状況であると思う。しかし、それは、役割分業の内面化が問題なのであって、処方箋としては、内面化している規範を疑ってかかることから始めるべきであり、安易に、懐古趣味に走るべきではない。

核家族化や、コミュニティの希薄化は、それなりに理由があって起こっている現象であり、人と関わるかどうかを選べる社会というのが理想ではないだろうか。 

石井氏は、昔話の専門家であって、現在の社会問題の専門家であると主張しているわけではないので、これ以上の批判は避けるが、さて、第2回以降、「普遍的な価値」とやらの提示あるのか、期待しよう。